玉岡歯科・矯正歯科

厚労省の定める『かかりつけ歯科医機能強化型医院』『外来診療環境体制』『在宅療養支援歯科診療所』などの施設基準をクリアしています。

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歴史に見る歯の話

抗生物質の恩恵を受けれなかった新選組隊士

新選組二番隊長・永倉新八は、池田屋騒動や鳥羽伏見の戦、そして戊辰戦争を戦い抜き大正時代まで生きた数少ない隊士でした。
そんな彼も、最後はむし歯による感染症から骨膜炎に罹患し、最後は敗血症を併発し亡くなりました。
イギリスの細菌学者フレミングによる「抗生物質」の歴史的発見は1929年(昭和4年)です。それ以前の時代は結核、梅毒などの感染症はもちろん、むし歯で命を失う人も珍しくはありませんでした。
歴戦のつわもの、永倉新八もこればかりはなすすべがありませんでした。
私たちは近代医学の発達に感謝しなければなりませんね。
(歴史マニアの院長より)

義経は出っ歯だった?

「源義経は出っ歯でぶさいくだった」という説があります。
これは、平家物語第十一巻で、壇ノ浦の戦を前にして平家の武将が味方の兵士たちに言った言葉が唯一の根拠になっています。
でもよく考えてみると、決戦を前にして兵士たちの戦意を高めるために、悪意を込めて敵将をけなして檄を飛ばすのは当然ですよね。
遺伝的に見ても義経の実母は京都一の美人と謳われた常盤御前、また異母兄とはいえ源頼朝は男前の絵が残っています。
判官びいきの日本人としては、やはり義経は哀れを誘うほどの、歯並びの綺麗なハンサムだったと思いたいですよね。
(歴史マニアの院長より)

土佐24万石と口腔外科

1573年、織田信長の朝倉攻めに従軍した若かりし山内一豊は、死闘の末に敵の猛将・三段崎勘右衛門を討ち取る武功を挙げました。
しかし、その際勘右衛門の強弓を顔面に受け、矢が左の頬から右側臼歯部下顎骨に貫通するという重症を負いました。
現代であれば、即刻口腔外科に入院のうえ麻酔下で摘出・縫合手術を受け、抗菌薬(抗生物質)投与による感染予防管理と栄養管理を行うということになりますが、なんと一豊は家来の五藤為重に命じ、その場でわらじのまま顔面を踏みつけさせ矢を抜かせました。
その後は感染症による発熱と痛みに苦しみながら、家来に戸板で担がせて戦場を駆け抜けたと言います。功名に命を賭ける若武者の気概が伝わってくるようなエピソードです。
土佐24万石への歩みはこんなところから始まったのですね。
ちなみに、藩祖の顔面を踏みつけたわらじと引き抜いた矢は、後に家老となった五藤家の家宝として代々大切に保存され現在に至っています。
(歴史マニアの院長より)

近代麻酔の夜明けは歯科医から

麻酔

わずか150年前まで、全身麻酔の技術はこの世に存在しませんでした。
たとえば壊疽で脚を切断する場合でも、酒を飲んで歯を食いしばって耐えることくらいしかありませんでした。
1844年、アメリカの歯科医ホーレス・ウェルズは見世物小屋で使用されていた「笑気ガス」に着目し、吸入麻酔として用いることを思いつきました。
1845年にはこれまた歯科医のウィリアム・モートンが「エーテル」を用い吸入式全身麻酔を考案しました。
このエーテル麻酔がその後、外科や産婦人科などのさまざまな分野で使用されるようになり、外科手術の応用範囲が飛躍的に伸びることになりました。
今日の麻酔技術の圧倒的な発達は、歯科の痛みを取るところから始まったのですね。
(歴史マニアの院長より)

“一口30回の咀嚼”と徳川300年

徳川家康は「東海一の弓取り」と表現された武人ですが、人一倍健康に気をつけた人としても知られています。
当時流行していた梅毒などの性病が感染症であることに気づき、遠征の際にも決して見知らぬ女性を近づけなかったということです。
また彼は粗食を好み、一口30回噛むことを配下の武士団に奨励しました。
噛むことによって十分な栄養素を吸収し、そして頑健な骨格や肉体を育むことができました。
屈強な三河武士団はこうして培われていったのですね。
江戸幕府300年の基盤をこういった視点から見てみると、歴史がさらに楽しくなってきますね。 
by院長

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